お便りありがとうございました。

皆様からのお便りをご紹介いたします。

私がラジオたんぱ(正確には日本短波放送)を聞き始めたのは今から27年前、まだ中学生でした。聞き始めはもちろんヤロメロ、それからミュージックアラカルト、ポエム、QSOジョッキーといろいろ聞いておりましたが、当時のリスナーの方はほとんど高校生から浪人生で中学生はスタジオに行っても珍しい存在でした。がんばってはがきもヤロメロに何枚か書いたのですが
高校生と中学生がはがきで張り合ってみても勝ち目はないのは明らかで、ぜんぶ没でした。
そんなわけではがき職人は辞めまして、放送は聞くだけにし必ず、テープにとって聞き返し、最後はタイマーを買い込み、留守緑をしておりました。今思えばあのときのテープ、全部とっておけばと思います。(最終回は保存してありますが)
今回は社名も日経ラジオ社になってしまうのですね。日本短波放送からラジオたんぱに変わるときは愛称が変わるんで日本短波放送の名前は残る。なんて言ってましたが、今回は全部変わって
しまうんですね。これからどうなるんでしょうか、たのしみです
あさのひととき 様
私が初めてハガキを書いたのも「ラジオたんぱ」であり、現在も投稿している、その放送局の名前が無くなる事には感慨深いモノが有ります。
「ヤロメロ」当時は聴くだけでしたが、87年「土曜めきラジオ」から常連、その他多くの番組でお世話になりました。
「あずさ2号」の名前も16年間使っております。(「@」の記号はPCの発達で同じハンドルネームを使う方が多いため付けておりますが発音はしません。)
初めの頃は、アナログの安い短波ラジオでノイズやフェーディングに悩まされ、チューニングダイヤルを調整する指先は微妙な技術?を必要としました。
そして聞こえてくる照子さんや斉藤洋美さんの声に惹かれていた私、それも懐かしい思い出です。
デジタル式のラジオが登場した時も時代の変化に感動し、今回もまたその移り変わりを見守る事になりました。これからの「ラジオNIKKEI」の発展を願って止みません。
@あずさ2号 様
NSB日本短波放送の局名がラジオたんぱと決まった時に、ひらがなの局名なんておかしいなどと葉書を書いたものですが、また名前が変わる今、改めて考えると良い名前でしたね。また、たんぱの番組には、少し大袈裟ですが人生の節目毎に影響を受けました。英検(百万人の英語)、大学受験(ラ講)、ハム免許(QSOジョッキー)、就職(就職学生電話相談)、禅(ポエム)などなど。お世話になりました。これからもよろしくお願いします。ラジオNIKKEIに変わっても、短波放送は続けてほしいです。 しん 様
今月で”たんぱ”の文字が無くなってしまうのは、なごりおしです。
そうですね、”たんぱ”は、やっぱり私の全ての始まりでしたね。
ラジオに最初に出会ったのも中波でなく”たんぱ”だったし。
大橋さんと出会ったのも”たんぱ”だったし。
スタジオの雰囲気も味わったのも”たんぱ”だったし。
全て、”たんぱ”から始まったのも同然ですね。
それが、無くなるなんてちょっとさびしいです。
これも、時代の流れだからしかたないでしょうね。

”たんぱ”や”ヤロメロ”に関しては、語りつくすことができません。
”たんぱ”事態が私の”青春”だったかもしれません。

匿名希望 様
日本短波放送(NSB)からラジオたんぱに変わったときの第一印象は「なんじゃそりゃ」でした。でもヤロメロ全盛期にはスタジオリスナーとして照子さんの曜日はもとより(?)他のパーソナリティーの日にも通ってました。たんぱ=私の青春 でしたね。
BCLブームのおかげで照子さんとたんぱと出会ってから早や25年。今では妻も子もいる立派なオジサンになってしまいました。
ラジオNIKKEIに変わっても照子さんが放送を続ける限りリスナーは続けるつもりです。長い付き合いになりそうですネ。
今後ともよろしくお願いします。
青木 とうべい 様
“ひろがる波は、たんぱ”
「日本短波放送」の愛称が「ラジオたんぱ」になった頃、たんぱで、こんな歌詞の歌が良く流れていたのを覚えています。思えば、たんぱが一番力強かった頃かもしれません。中波、FMと短波の3バンドのラジカセが普通だった頃です。
私にとっては、ラジオたんぱ=ヤロメロであり、ラジオたんぱ=大橋さんでありました。公開放送でリスナーが直接参加する独特の番組手法は、地方でラジオの前に座っているリスナーにとっても斬新で、愉快なものでした。しかし、大学受験を期にラジオをあまり聞かなくなり、いつのまにかヤロメロも終了してしまいました。
一昨年、インターネットで大橋さんのお名前を検索して、ヤロメロの25周年記念番組を知り、テルネットインを知りました。大橋さんの番組と再会を果たすことができ、とてもうれしく思っています。
社名や愛称から「たんぱ」の文字が消えるのはさびしいことですが、最近では、短波一本槍から複合メディア化が進んでいることから、致し方ないことなのでしょう。今後も、北海道から沖縄まで、全国一律のサービスを続けてほしいと思っています。
ありがとう、ラジオたんぱ、そしてこれからもどうぞよろしく。
こしやん 様
「ラジオたんぱ」といえば株式と競馬放送がメインであるが、私はこれらを聴いたことはない。
私が「ラジオたんぱ」を聴くのは昔であれば「ヤロメロ」、現在は「テルネット・イン」である。
昭和53年、私が初めてヤロメロを聴いたとき、独り静かに放送を聴いているとラジオから
面白い話が聞こえてきて、さらにスタジオに集まったリスナーの大爆笑の声が聞こえてきた。それを聞いて私も大笑いした。そのとき私は「これはなんて面白い番組なんだ!」と思った。
以来、私はヤロメロを聴き続け、またハガキを書き続けて、ついにはラジオたんぱへ出かけて
いった。そしてとうとう大橋さんに出会うことになった・・・。
私がもし、大橋さんに出会わなかったら私の人生はたぶん今の人生と違うものになっていただろう。就職も結婚観もそして生き方も変わっていただろう。今はそんな気がする。
4月からラジオたんぱの名称が消えてしまうのは寂しい気がする。私にとってラジオたんぱの名称は人生の1フレーズであった。次はラジオNIKKEIに変わるが、ラジオたんぱの名前は
心の片隅にそっとしまっておきたい。
吉田の与太郎 様
私が短波放送を聞き始めたのは1976年頃でした。
当時は『日本短波放送』でしたね。その後、『ラジオたんぱ』に変わりました。変更になった時は平仮名の『たんぱ』の文字がとても気にいっていました。
あれから20数年、『ラジオたんぱ』には僕達リスナーの青春がいっぱい詰まっています。
沢山の思い出を『ありがとう ラジオたんぱ』!長い間お疲れ様でした。
そして、『こんにちは。ラジオNIKKEI』思い出をいっぱい作りましょう。
FC茂庭 様
たんぱの名前が無くなるのはすごくさびしいですね。僕は昭和55年頃からのリスナーなのでNSBからラジオたんぱと言われてた時期でした。『あなたとじゃんけんぽん、ラジオたんぱ』って良く流れてました。エールキャンペーンとかスーパーウェーブキャンペーンとか
色々たんぱの名前があちこちに出てました。印象的だったのは当時高校生だった僕は、人気漫画雑誌ヤングジャンプとタイアップしてヤロメロの女子大生DJを決めた事でした。
ヤロメロ以外でもセクシーオールナイトリスナーとかクラスにいましたよ。中森明菜、早見優、堀ちえみなどデビュー直後のアイドルがゲストにオープンスタジオに登場したのもビックリでした。ラジオ日経になって又、黄金時代を作ってください。
及川文男 様
  今ラジオに葉書やメールを投稿している人生も、そこかしこで行われるイベントに参加する人生も。仲間内で集まろうとする人生も、全てラジオたんぱがあって、そこに公開放送があって、とても自由な空気がその中にあったからこそ成り立っています。
 10数年前、初めて公開放送のスタジオに足を踏み入れ、当時自分を表現する方法など持たなかった私が「葉書で自分を表現していいんだ、このリスナーの中に自分がいてもいいんだ」と心底実感できた時に、当時の私の未来が大きく開け大きな可能性を手に入れることができました。
 今の私がここにあるのは、一重にラジオたんぱのおかげです。
 ありがとう、ラジオたんぱ。
深海の鮫ラブカ 様
こんにちは。私のラジオ短波(日本短波放送の方がなじみがありますが)の出会いは、小学5年生の時、短波付きラジカセを買ってもらってからで、照子さんのヤロメロは、当時夕方5:00頃、アメリカのKGEI局の日本語放送をキャッチしようとダイヤルを回していて偶然に聞こえてきたピ−ピ−キャ−キャ−の声に「なんておもしろい放送なんだろう!」ととりこになってしまいました。オ−プンスタジオで毎週リスナ−を集めてやっていたなんて、当時は本当にパワ−がありましたね。スタジオに一度行きたいなあと思いつつ、行けなかったのが心残りです。 メカのよっちゃん 様
 僕にとって「ラジオたんぱ」の思い出はあまりないです。
昭和53年7月から長い間、化石リスナーになってましたから。。。
でも、「日本短波放送」の社名、そして「NSB」の略称が永遠に消える方は寂しいです。
sugioka10ri 様
ラジオたんぱの名称が無くなるということでメールをいたしました。

当時は、中学・高校・大学生時代。
「大橋照子さんのヤロメロ」の公開放送に何度となく参加させていただきました。
番組のもつ雰囲気、たんぱの持つ Everybody Welcome の雰囲気を
懐かしく思い出します。

夏は、スタジオの外の自動販売機で高級スプーン付きのアイスを買って食べたりしていました。
(未だにどうして木のスプーンが高級だったかは分りかねますが、永遠の謎として取っておきます。)

他には、スタジオでいつも拝見していた、ディレクターの方々、ミキサーの方々、そして
受け付けのおじさんの優しい笑顔が記憶に残っています。
ラジオたんぱ、ありがとうございました。

深江 様
惜別メッセージ
ヤロメロ、単発とならず、不発にも終わらず、大爆発でしたね。
熊之介 様
ラジオたんぱの名前で思い出すのは楽しいことばかりですが、
なかにはこんなこともありました。
ヤロメロの放送終了後、私は持っていたノートに大橋さんのサインを
書いてもらっていたとき、ふと大橋さんは一言おっしゃいました。
「名前なんだっけ?」・・・。
当時大橋さんは私のこと名前で呼ばずに「機動隊」と
読んでいたから私の名前忘れちゃったのでしょうね。
吉田勝美 様
たんぱと言えば昔、エレベータを降りると狼のはくせいがありあましたが、
今はどこに行ってしまったのでしょうか?『遠吠えを聞け、ラジオ日経で』なんて
再登場ですか?
及川文男 様
ラジオ日経になると世に出回っている、たんぱラジオのロゴはどうなるんでしょうねー。
今はNSBとかラジオたんぱとか書いてありますけど、、、、?
及川文男 様
たんぱが生んだ名物番組を上げよともしテストに出たら
第5位 合格いっぽん道 第4位 ポエム 第3位 テルネット 第2位ヤロメロ
そして 第1位は今ででは絶対考えられないセクシーオールナイトでしょう。
及川文男 様
私が初めてヤロメロのスタジオにおじゃましてもう20年余り、その時に偶然葉書が読まれ生照子さんと生会話をしたのを今でも覚えています。私も今年41になり、結婚、そして妻との死別といろいろな事がありましたがラジオ短波と言う名前は無くなっても照子さんと過ごした記憶は一生忘れないでしょう。おつかれさまでしたラジオ短波。 きみや 様
たんぱといえば、照子さんの渡米の時の送別公録を思い出します。
当時受験生だった私は、上京中に試験が終わった足で急いで向かったものでした。
そのときの志望校は残念な結果でしたが、照子さんを拝見したあとに受けたすべり止めには無事合格。おかげで今の自分があります(笑)
つっちゃん 様
私が最も多く「文字」で書いた単語(?)…
 1位:自分の名前(そりゃそうだろ)
 2位:「大橋照子」(多分ね)
 3位:「東京都港区赤坂 ラジオたんぱ」(そりゃもう、ハガキの宛名ですから)

あぁ、どれもハガキ関連…メール時代になって「宛名」も書かなくなってきたので、
もはやこの順位は不動です。

上原 英明 様
ラジオたんぱファンの皆様へ。
愛称ラジオたんぱからラジオNIKKEIに変わる4月1日
私「たんぱの主」はさようならラジオたんぱとともに名称を変更いたします。
その名は「たんぱの頃の主」。これならたんぱは永遠に不滅です。
たんぱの主 様
「広がる波はたんぱ、風に乗せて北へ南へ、あなたとジャンケンポン、ジャンケンポン、ラジオた・ん・ぱ!」
中学生の時に聴いたこの「たんぱのテーマ曲」(でしたっけ?)が、なぜか今でも頭の中に残っています。
今にして思えば、何かがある時は、必ずと言っていいほど「ラジオたんぱ」が傍にいたような気がします。
アマチュア無線の免許を取る時に聴いた「初級ハム講座」、アマチュア無線の世界を知りたくて聴いていた「QSOジョッキー」、学校から帰って唯一の楽しみだった「ヤロメロ」、大学受験でお世話になった「ラジオ講座」、現在の「テルネット・イン」・・・。
そして、その中心にいた方が「大橋照子」さんです。
特に意識して聴き始めた訳でもないのに、今も強く印象に残っています。
照子さんやこれらの番組があったから、今の自分があるのだと思います。
「ラジオたんぱ」という局名は変更されますが、当時の思い出は、これからもすっと忘れないと思います。
本当にありがとう、ラジオたんぱ。
出来れば、あの「ジャンケンポン」の歌を、もう一度聴いてみたいです。
greenrose 様
私にとって「ラジオたんぱ」といえば、まず「病気」。ヤロメロを聞き始め、1〜2年したときに私が入院。入院中は姉が録音してくれました。一昨年その姉が入院手術。それをきっかけにネットでテルネットを聞き始めました。最初の時も2回目の時もラジオで「お大事に、がんばって!」と言っていただいてから、良くなりました。 平松順一 様
20年位前たんぱに行ったら、当時男子トイレは世の中の先駆けで水が流れる自動洗浄トイレでした。今でこそ男子トイレは当たり前になりましたが、当時は感動しましたねー。
あっ、男子トイレだから照子さんは知らないですねー。
及川文男 様
さようなら ラジオたんぱ
とっても美味しかったです  
ごちそうさま
一生わすれません 
ありがとう

ようこそ ラジオNikkei
お味はどうかな?
注目しています
これからも よろしく

にし★ぐっち 様
私が、ラジオたんぱを始めて受信して聞き始めたのは、ほんの偶然な事でした。その偶然が無ければヤロメロの放送も、今のたんぱの放送もこれ程聞いていたかどうだか判りません。偶然とは、学校の部活が終わり、私の持っていたBCLラジオ(クーガ113)でSW帯のダイヤルを回していて偶然に、ヤロメロの放送を聴いてしまい、虜になってしまったのです。公開放送、それも集っている人たちが殆んど大学生で、一緒になって放送を作っている。それで喋っている事が為に成るのか、成らないのか。判らないながらもとてもインパクトのある放送、それから毎日タイマーで留守録して、ほんと正座でもして聞き入っている様な姿勢で、御かげで放送のある部分、一字一句覚えてしまった様なあり様、自然と同じ事を自分でも喋ってしまい、いいボキャブライリィーにもなってました。なにしろ年上の大学生達の喋っている事だから、と少しいい気分。それから暫くして突然の別れの時が来て、その後また、いえ今度は自分もメールで放送に参加する様になり今に至っています。最後に一言。ありがとう、ラジオたんぱ。 熊之介 様
特番「ヤロメロ再現コーナー」宛てです。

『こんにちは!照子さん!いつも中学の部活があるから
毎日カセットに録音して聴いてますよ〜!
でも、先日「未来から来た」っていう僕に似たオジサンが
「将来は何時でも照子さんの顔を見ながらヤロメロが聴けるゾ!」って言ってた!!
本当かな〜?? 「ラジオたんぱ、バンザイ!」だね!!』

はるひろあーちゃん 様
昔、たんぱ第二放送でニュースを一日中やってたような時期があったような記憶があります。ニューストゥディとか言う番組だったような、、今の時代そんな番組があったら通勤時とか聞くんじゃないかなーと思います。
及川文男 様
ラジオたんぱ〜慣れ親しんだこの愛称がなくなってしまうのは中学の頃からの親友を亡くしてしまう程、寂しい出来事です。短波放送(NSB)は聴く意思がなければ決して聴くことのない放送局でしたが、その分、惹きつけるモノをもっていたと思います。多分、昭和53年頃だと思いますが、この愛称を使用し始めた時、経済などの専門家の為の専門放送局から若者や主婦なども対象にした「聴かせる」番組を持つ総合放送局への転換があったと思います。ヤロメロを始め、合格一本道、私の書いたポエムなど、ほんと私の青春の忘れる事の出来ない1ページ今でも形成している「ラジオたんぱ」です。
再び、経済専門放送局の様な名前になってしまいますが、愛称が変わっても今後も聴かせる番組を続けて欲しいと思います。
追伸:中央競馬にラジオたんぱ名を冠したレースが今年まだ2レース残っている筈ですが、やはりラジオ日経名になるのでしょうか・・・
野田 悟 様
 僕とラジオたんぱとの出会いは、中学1年生頃のBCLがきっかけでした。「ハロージーガム」「BCLワールドタムタム」といった番組を聴くため、周波数を合わせたのです。あの頃は日本短波放送(NSB)でした。
 そんな中、大橋照子さんの「ヤロメロ」に出会って、僕の生活の中心になりました。「ヤロメロ」を聴くために、中学も高校も無所属・帰宅部だったし、放送中は親の呼びかけも無視したり、NSB対応の携帯ラジオを購入したり。照子さん以外のパーソナリティー(斎藤洋美さんなど)も個性的で大好きでした。
 ついでに、「ヤロメロ」の次に放送される「百万人の英語」までも聴くようになったりもしました。他にも、すがやみつるさんやケイ・アンナさんの番組なども聴きましたね。
 「ヤロメロ」のスタジオに行くことにずっと憧れた地方リスナーなので、高校3年生の時、大学受験で初めてスタジオに行って、大感激でした。それで、東京以外の大学に合格したのですが、東京の大学で「スタジオ通い」をするため、浪人の道を選びました。
 しかし、照子さんの口から「サンフランシスコに行きます。」という言葉と、「ヤロメロ」終了のお知らせ。「東京の大学に行ったら、毎日、スタジオに通える。」と思っていたのに...。本当にショックでした。第1志望の大学に合格して、照子さんから「おめでとう」の言葉と色紙をいただいたことが救いになりましたけれど。
 僕は時々、「ヤロメロに出会っていなかったら、東京の大学に現役合格していたら、東京以外の大学に行っていたら、人生がどのように変わっていただろう。」と思い、ヤロメロやラジオたんぱの影響の大きさを感じています。いろいろあったけれど、僕はこれまでの人生は良かったと思ってるので、ヤロメロとラジオたんぱに感謝しています。本当にありがとう!新しい名前になっても、よろしく!
チャリ野郎 様
 照子さんこんにちは。28年ほど前中学生のころBCLやアマチュア無線を始め,NSBのQSOジョッキーなどは良く聴いていました。その頃の照子さんのベリカード貴重品です。それから数年後,大学は東京の大学へ進学し,ヤロメロのスタジオに遊びに行きました。あのころ撮った写真や照子さんのサインも大事にしています。照子さんの本も買い求めてはサインをもらいました。すべてが青春の宝物です。大学時代は照子さんが小石川に住んでいた頃近くの後楽園に住んでいました。スタジオに行くとき一度丸の内線の国会議事堂駅から照子さんと2人でラジオ短波まで歩いていったことがありました。今思えば,すごい経験です。
 大学を卒業して,故郷長崎に戻って高校の先生として,20年目を迎えようとしています。実は最近また,アマチュア無線やBCLをしたくなって,昔から欲しかった受信機をようやく手に入れた今日この頃です。たんぱの名前は変わりますが,照子さんはこれからもみんなから愛される照子さんであって欲しいと思います。応援しています。
元後楽園の住人 様
中学の頃、ピー、キュルルルコロコロジャンジャンジャン、ショワショワと言う雑音の中からかわいらしい大橋さんの声を聞き取ろうと集中していました。日によってはぜんぜん聞き取れないこともあるのに。濁った池の中から鯉の背中がすーっと見えて消えて行くような大橋さんの声を何とかつかまえようとしていました。内容は、わからないのに声だけでも聞こうとしていました。昔は、まじめでした。今は、ごめんなさい 藤原一夫 様
ラジオたんぱとの出会い、それは”大橋照子さん”という素敵なアナウンサーとの出会い
でした。もちろん、最初はそんなアナウンサーがいることなど知らず、ただただ、ラジオ
のチューニングをし、いかにいい音で聞くか、雑音の中からクリアな音声で聞くか、そう、
今から27年前くらいでしょうか?BCLが全盛の時代、世界各地のたんぱ局を聴き受信
報告を送るとベリカードがもらえました。最初は、海外にばかり目を向けていましたが、
ある時、日本にもあるんだから、ここを聞き逃す手はないってことで、挑戦。使用してい
る周波数も複数あり、比較的簡単に聞くことが出来ました。そんな時、ある女性の声が雑
音に混じり聞こえてきました。そう、照子さんでした。それが最初。時を経て、たんぱの
名前が消えようとしている今、いまだに続いている素敵な出会い。こんな素敵な出会いを
くれた”ラジオたんぱ”にお礼を言いたいです。どうもありがとう。名前が変わっても、
この出会いは決してなくなりません。
田中俊英 様
ラジオたんぱ、それは私に勇気を与えてくれた放送局でもあります。内気な性格もあり、
人前に出る、知らない人たちの中に入っていく、そんな事とても出来ませんでした。
でも、違ったのは、ある女性パーソナリティに逢うことでした。そのためなら、知らない
人の中に入っていったり、話をしたり出来たんです。驚きです。
きっと、そういうことが出来るようになったのもラジオたんぱのおかげです。勇気をくれて
ありがとう。
田中俊英 様
ラジオたんぱの番組にはほんとうにお世話になりました。
親のラジオを借りて「初級ハム講座」や「子門と照子のQSOジョッキー」を聞いて、
アマチュア無線の試験に合格できました。
学校から帰って、「ヤロメロ」や「タモリのBCLワールドタムタム」を聞き、
夜のお供は「セクシーオールナイト」でした。
そしていまは、「競馬中継」・「テルネットイン」・「しゃべってしゃべって」が
たのしみです。
ラジオNIKKEIになってからも、引き続き聞いていきます。
田中亙(わたる) 様
私と短波の出会いは当時(今もですが)ファンだった谷山浩子さんが番組をやると聞き、父親の持っていた短波ラジオを引っ張り出して聴いてました。ですが、私の住んでいた北九州の門司はお隣の国韓国が近いためか定期的に韓国語が混じりかなり聞き取り難かったので、それからしばらく短波から離れてました。それから数年、中波で知っていた大橋照子さんの番組を聴く為に短波をまた聴こうとは夢にも思ってませんでした。
社名は変わっても聴く方はかわりませんのでこれからもよろしくお願いします。
長松宏和 様
BCLブームに偶然聴いた、照子さんのヤロメロで日本に短波放送のあるのをしりました。
当時の名称は「日本短波放送」で、始めてラジオ局のスタジオにいったのが「ラジオたんぱ」の
ヤロメロの時のオープンスタジオでした。初めてだった僕に、スタッフの方やリスナーの皆さんの優しかったのを今でも覚えています。
競馬にも株にも特別興味もなく、また中波と違い特別なことがないと聴くことのないであろう短波放送で、
ラジオの面白さやリスナーやパーソナリティとの繋がりを教えてもらい、照子さんのリスナーとして
「ラジオたんぱ」と歩んできた青春は、僕の中ですごく充実したものでした。
「日本短波放送」から「ラジオたんぱ」、そして「ラジオNIKKEI」と名称は変わっても、照子さんを、そして番組を思う気持ちは変わらないと思います。
遠藤康之 様
「ラジオたんぱ」の愛称命名から、もう25年以上の歳月が経過したんですね。早いものです。
当時、私はまだ中学生でした。あの頃は「ヤロメロ」も絶好調真っ只中でしたから、とにかく短波のスタジオへ行きたいという夢を追い続けていました。地下鉄を降りて、外堀通りからアメリカ大使館の通りへ入った瞬間、目に飛び込む「ラジオたんぱ」の看板文字は、心躍らされるときめきの瞬間でもありました。オープンスタジオの円卓を囲んで繰り広げられる生放送は、田舎者の私にとってカルチャーショックであり、またそれが毎日の生活の励みにもなっていたと言っても過言ではありません。随分葉書も日記のように書いて出しました。少しでも有名リスナーになりたい願望のもとに、ボツにもめげず出し続けました。すべて良い思い出です。
「ラジオたんぱ」の文字は消えても、その精神はこれからも引き継いでいただき、パーソナリティとリスナーを電波という糸で結ぶ、家族の一員を思わせる放送局であって欲しいと思います。
小堀 茂男 様
 たんぱでの一番の思い出は中学2年の夏に小森まなみさんのはしゃマルの放送を見学した事です。このときは念願が叶ってうれしかったですね。私はヤロメロが終わった後にたんぱのラジオを買ったのでヤロメロよりはしゃマルの方に思い入れがありました。
 他には最初に買ったラジオが海外仕様のものだった為(3MHZが受信できない)に夜は外国局の混信で聞こえず買い換えようと思ったのですが親に反対されて大喧嘩になったのは今にしてみれば笑い話です。(後で何とか買えました。(^_^; )
 「ラジオたんぱ」という名前が消えるのは残念です。
 長い間私たちを楽しませてくれて本当にありがとうございました。
快速ばんだい 様
“ラジオたんぱ” この6文字に対する思いでは、500文字程度では語り尽くせません。
僕の人生の半分以上をともにしてきたものですから。

日本短波放送との出会いは中学2年のころ、ヤロメロJrでしたね、それからお兄さん番組のヤロメロ・はしゃ○と夕方の番組との泥沼リスナー生活。

その後は 砂絵子にとまれ・土曜文芸館・ドヨメキラジオ・私の書いたポエム・テルネットイン へと移り変わっていますが、大橋さんを産んだ“たんぱ”の風が残っているんですよね。
“たんぱ”の名前が消えるの非常に名残惜しいのですが、番組は継続されるようでちょっと安心しています。 社名は変わろうが“たんぱ”の火はいつまでも消えないようにパーソナリティ・リスナー一緒になって守って行きましょう!!

土屋 敏樹 様
たんぱと言えば、ハワイのたんぱ局ケーズーとのドッキング放送がヤロメロでもありました。他局に無い試みで、ハワイを知らない自分は、なんとなく電波を通じてワイキキの雰囲気を感じました。 及川文男 様
20年位前、たんぱにもベスト10番組があり、『フレッシュ10』と言うリクエスト番組があり、照子さんの『たんぽぽ色の飛行船』が1位になったのを覚えてます。
当時、ニッポン放送の谷山浩子さんのオールナイトニッポンでも上位になりましたよねー。
及川文男 様
「ラジオたんぱ」を最もよく聴いていたのは、高校から大学の間でした。
うちでは短波の受信状態があまり良くなかったため、聴くのにわざわざ外に出て行ったりして結構苦労したことを思い出します。
ヤロメロの放送時間が4時〜6時だった時期は、ちょうど下校時間と重なっていたので、カバンの中に短波ラジオを隠し持ち、帰りの電車の中でイヤホンをつけて少しでもよく聞こえるようにとチューナーを調整しながら聴いていたのですが、傍から見れば大層不気味な雰囲気だったでしょうねぇ。今思うと赤面の極み。
あの頃や前回のヤロメロ25周年のときのように、今回のさよなら放送も家のベランダか近所の公園で聴こうかなと思っています(夜中なのに)。
とにかく、さよなら「ラジオたんぱ」、またどこかで・・・って、そんなことはないか。
Prizon 様
楽しくて、ためになり、感動をたくさんたくさん、有難う。 かぶと 様
照子さん、長い間お疲れ様でした。これからは、照子さんの思い出を心の支えに生きて行きます。ん? のぐ子 様
照子さん「こんばんは」です。
とうとう本当に、「ラジオたんぱ」の名前も変わってしまうんですね。
寂しいですが、「時代の流れ」でしょうか仕方ないのでしょうね。
「たんぱ」は、中学生のころから聞き出して「ギャングパーク」「ヤロメロ」
「子門と照子のQSOジョッキー」等など懐かしい番組がいっぱいでした。
今は、「テルネット・イン」そして当時から続いている「私の書いたポエム」が心の
よりどころです。「たんぱ」の名前は無くなりますが「ニッケイ」になっても照子さんの番組は「聴きます」。
照子さん「ガンバッテ」そして「ラジオたんぱ」・・・「ありがとう」
大崎 雄二 様

2004.04.01