▼あなたのお名前
▼「ヤロメロ」当時のペンネーム
▼ヤロメロ歴
1976年から大橋さんが渡米する年まで聴いていた。
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▼出した葉書きの枚数
覚えてないですが、毎日2枚位はアルバム、ギャングパークに出していました |
▼当時のことで、印象に残っている出来事・イベント・リスナーなど、なんでもお書き下さい。
当時は、今みたいにインターネットなんて想像もつかない世界たっだので、横のつながりをどのように持つかいつも気にしていましたね。
公開録音や集いも全国で開催されましたね。ラジオから耳にする大橋さんの声、リスナーの名前・・これだけで初めて会った仲間とすぐにうち溶け合って楽しい時間を過ごしたものです。
私も当時は、鹿児島に住んでいましたが、初めて一人で上京した時も会ったことも無い仲間達(じんべちゃん、渡辺久和君、大阪の佐藤君)に羽田まで迎えに来てもらって無事短波までエスコートして頂き、滞在中の1週間タダで、お宅に泊めてもらい食事までご馳走になりました。
当時はみんな高校生・・親元での生活なのに、本当にお世話になりました。
こんなことってなかなかできないですよね!本当に感謝しています。 |
▼今現在は、どんなお仕事をなさっていますか?
▼照子さんからひとこと
川野君は、高校生の頃に鹿児島県加世田市から葉書きをたくさん送って下さっていました。
最初は初心者リスナーだからと、色つき「若葉マーク」を書いていたのが、結局トレードマークになって若葉マークを25年も書くことになってしまいました。
初めて東京のスタジオに見えたとき、赤いスーツを着ていて、話題になりました。
「ヤロメロ25周年記念番組」のときは、スタジオミキサーとテープ編集をして下さいました。
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更新日 2003/2/8
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▼あなたのお名前
▼「ヤロメロ」当時のペンネーム
▼ヤロメロ歴
確か大橋さんが28歳で結婚された直後からだから・・・10年くらい?
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▼出した葉書きの枚数
1000枚は超えてました おかげで唇は荒れ放題 立派なタラコになりました |
▼当時のことで、印象に残っている出来事・イベント・リスナーなど、なんでもお書き下さい。
今思い出すとやっぱりちょっと恥ずかしい気もしますが、「絶対有名になるんだ!」と言う変な気概はありました
高3の夏はじめて大橋さんにお会いした時、明らかに新潟名産と解かるお土産を持っていったのに、名前を聞かれずほとんどお話も出来なかったのをよく覚えてます
上京してからは、中西和也くん 松田修くん 矢沢右吉くんなんかと茗荷谷の「バンビ」や「白十字」に入り浸ってました
「バンビ」でボトルをキープしてたのは、後にも先にも俺らだけらしい・・
そこで2年連続行った 大橋さんのバースデーパーティーは忘れられません
ある時茗荷谷のマンションにいつものように「 お宮参り 」に行きました
でもその日はお酒が入っていたせいで「たんぽぽ色の飛行船」を歌いながらの行進でした
すると8階の窓が開き、人差し指を唇の前に立ててる人の姿が・・・
すぐに身を隠しましたが、しっかり見つかってしまい、それからしばらくの間、スタジオの隅で小さくなっているリスナーが数人いたそうです
もちろん、昔々の話 とっくに時効です
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▼今現在は、どんなお仕事をなさっていますか?
JR南武線の歌って踊れるスーパー車掌として、日々酔っぱらいに絡まれてます |
▼照子さんからひとこと
今、JR・N線の車掌さんですが、ときどき車内アナウンスでお客さんを笑わせているようです。
とにかく面白い・・・いや、可笑しい人でした。(今も)
葉書きにはいつも、真っ赤な口紅の唇がベタッと押されて・・。
唇をベチャッと葉書きに押し付けている様子が、いまだに想像できません。
顔も目も鼻も口も(態度も・・笑)デカい人です!
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更新日 2003/2/15
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▼あなたのお名前
▼ヤロメロ歴
▼出した葉書きの枚数
▼当時のことで、印象に残っている出来事・イベント・リスナーなど、なんでもお書き下さい。
わたしにとっては1979年の11月に山で1人でキャンプをしていてはじめてヤロメロをきいた2週間後、大学祭の講演会で来仙された大橋さんに実際にお目にかかることができたことが今でも一番印象に残っています。
番組でのやりとりのひとつひとつがうれしかったですが、平凡な人間になることは大変なことだ(大橋さんは忘れていらしゃるようでしたが...こころゆたかに生きたい にも書いておられますよ)、リスナーとパーソナリティーとの関係(擬似的社会的相互作用)などについての大橋さんのコメント、田中公明さん作の大橋さんとリスナーがラジオたんぱにたてこもって討ち死にするという内容の短編小説などが印象に残っています。
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▼今現在は、どんなお仕事をなさっていますか?
昨年3月より宮城県の病院で内科部長として診療にあたっています。
サッカーワールドカップで日本がトルコに敗れた試合のあった宮城スタジアムがあるところです。
100床程度の比較的小規模の病院で、わたしは主に循環器系の患者を診察しています。
脈診を重視し西洋薬と漢方薬を自由に使いわけるというのが私の診療スタイルです。
大学院生のころは肺高血圧症を遺伝子治療で治療したいと考え、1992年より米国国立衛生研究所(NIH)の国立心肺血液研究所、肺部門に留学し遺伝子治療の研究を行いました。
留学先の研究所はアデノウイルスベクターによる遺伝子治療を初めて行った研究所でしたが、この研究所の研究生活はハッピーではありませんでした。
その後おなじNIHの中の国立癌研究所に研究の場を移しまして1995年に帰国しています。
実際に研究した実感としてはアデノウイルスはとても治療には使えないなと感じました(論文はかけますが)。
ちょうどそのころ、米国で代替医療が注目されており、帰国したら遺伝子治療からは足を洗い、代替医療(漢方など)を行ってみたいと考えました。
最近フランスで行われた遺伝子治療において白血病が発症し遺伝子治療のトライアルが自粛傾向にあり、当時の私の判断に間違いはなかったと今でも思っています。
帰国して大学(東北大学医学部 循環器病態学/旧第一内科)で循環器領域の漢方治療をと思いましたが、公式に漢方外来を開設することは認められず、私の担当外来を循環器漢方外来(仮称)と個人的に命名し漢方薬を処方していました。
この診療を通して、脈診による血行動態の把握、心不全の管理、心臓神経症の治療などに成果をあげましたが、こういった漢方治療は教授の好むところではなく数年前より赴任が示唆されており、昨年3月のエキサイ会病院赴任となりました(赴任させられる前に漢方診療ができる施設に移ろうかと悩んでおりましたが結論がでてほっとしたというのが実感です)。
当方の循環器漢方治療もようやく認知されるところとなり、赴任直前に週間朝日より取材があり、また昨年秋の漢方医学に循環器領域の漢方医学の座談会に招待されました。
医者が足りなく忙しい、自分の思い描く診療がなかなかできない、ボーナスが少ない、などいろいろ不満はありますが、当面ここで仕事をと思っています。
こんなことで人生の一区切りがついたときにちょうどヤロメロ公録の話がありいってみようかと思った次第です。
ヤロメロが終了したときは医師国家試験があったときだったし、わたしにとっては人生の区切りにヤロメロという感じです。
最近のテーマは苦手なコンピューターをもちいて忙しい診療をなんとかしたいということ、それとどこの病院にいっても診療ができるようにここ数年資格試験の受験勉強を継続しており(内科学会認定医、日本東洋医学会専門医、日本循環器学会専門医、日本空手道連盟初段(?)などど資格の取得が続いており)可能であれば内科学会の専門医資格を取得したいと思っています。
ということでやや最近はやや西洋医学にちからを入れています。
ふつうの内科医になるというのもなかなか大変だと実感しています。 |
▼照子さんからひとこと
片寄君を知ったときは、もう東北大の学生さんだったのでしょうか。
理知的な笑える葉書きをたくさん送って下さいました。
厚さ10センチにも及ぶ「学位論文」を、小包で送ってくださったのにはビックリしましたよ。
もちろん、難しくて私には何も分からない論文だったけれど
最後に「大橋照子さんに送る」と書いて下さって。感動しました。
私がサンフランシスコにいたとき、お手紙が来て、
「失明しそうです・・・希望していた脳神経外科を諦めました・・・」と。ショックでした。
でも今、元気になられて立派なお医者様になられていて、すごく嬉しいです!
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更新日 2003/2/22
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▼あなたのお名前
▼「ヤロメロ」当時のペンネーム
▼ヤロメロ歴
▼出した葉書きの枚数
▼当時のことで、印象に残っている出来事・イベント・リスナーなど、なんでもお書き下さい。
研究する会を通して、渡辺さん、川野さん、バビルさんなどと手紙のやり取りができたこと
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▼今現在は、どんなお仕事をなさっていますか?
▼照子さんからひとこと
河村君の葉書きに、鉛筆で紙にこすった百円玉が貼り付けられていたのは、いつからだったのでしょうか・・。
私には、ある日突然来始めた「百円玉の絵付き葉書き」が滅茶苦茶面白かったような記憶で残っています。
その滅茶苦茶面白い葉書きは、何枚になっても面白くていつの間にかすっかり、「ヤロメロ」の土台になっていましたね。
岐阜県からでなかなかスタジオには来られなかったので・・・
なかなかお顔を覚えられず、お顔は百円玉になっていました。
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更新日 2003/3/1
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▼あなたのお名前
▼ヤロメロ歴
1978年(14歳中2)からですので24〜5年になります。
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▼出した葉書きの枚数
恥ずかしながら、たぶん3〜5枚です。その内2枚が採用。最初が中3の時。2度目は浪人中。2度目の時は、大阪のスタジオからの放送でした。「自宅待機次期大学生」という肩書き(?)がけっこう受けていたのを記憶しています。
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▼当時のことで、印象に残っている出来事・イベント・リスナーなど、なんでもお書き下さい。
1979年に前橋で行われたリスナーの集い。地元のヒーロー(?)バビルさんの参加もあり、楽しいものでした。地方にいても「リスナーの横のつながり」を実感できるんだ、と思いました。
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▼今現在は、どんなお仕事をなさっていますか?
群馬県職員(前橋土木事務所の総務課で、入札・契約等の事務をしてます)ですが、退職を考えています。というのもこの四月に行われる高崎市議会議員選挙に立候補したいからです。今は妻を説得中です。
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▼色々なクイズ番組で優勝なさったり優秀な成績をおさめられたその歴史や思い出をお書き下さいますか。
一番有名なのは1988年11月放送の「第12回アメリカ横断ウルトラクイズ」優勝だと思います。照子さんが当時お住まいであったサンフランシスコにも3泊しました。
最近では2001年11月放送の「クイズ$ミリオネア」(最終の15問目1000万円の問題に不正解、賞金100万円)「タイムショック21」(優勝:賞金300万円/5人(団体戦のため))
その他で優勝したのは「パネルクイズアタック25」くらいです。
顔と名前が出た程度なら全国ネット・関西ローカルでそれぞれ後数回づつあります。
変わったところでは「クイズダービー」。本当は回答者として出られたらいいのですが、5つの枠はすべて著名人。「はらたいらさんに1000点」というほうです。しっかり10万点獲得しました。出場したのは毎年七夕直前の放送日に組まれる「遠く離れた恋人大会」。当時は群馬・京都の遠距離恋愛中。
超ローカルなものでは「ラッキークイズJOSHU」という群馬テレビの番組でも優勝しました。
といっても、群馬県人でさえほとんど誰も知らない番組です。
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▼照子さんからひとこと
瀬間君は、「大陸横断ウルトラクイズ」の優勝者だということで「え〜、そういう方がヤロメロリスナーだったんだ!」とビックリしました。
テレビのクイズ番組でも何度かお姿を見て、活躍に喜んだりハラハラしたり。
瀬間君を講師(?)に迎えて、「クイズ傾向と対策」ページを作ってみたいですね。
瀬間君は、「ヤロメロ25周年記念番組」のときに2スタにいらして下さっていました。
でもご都合で、番組の途中で帰られたのですが、帰られるとき後ろで、番組最中の私の声がスピーカーから聞こえたそうです。
「アメリカ、コネチカット州からメールを頂きました。コネチカットってどこ?」
瀬間君は心の中で「コネチカットは、アメリカ○○部、○○の南〜〜キロにあり、人口〜〜人、気候は〜〜、産業は〜〜」と呟き、答えられないのを残念に思いながら、たんぱをあとにしたそうです。
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更新日 2003/3/9
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▼あなたのお名前
▼「ヤロメロ」当時のペンネーム
カビor短波のカビ。もっぱらカビさんと呼ばれてましたねぇ。 |
▼ヤロメロ歴
77年から7年くらい通っていました。自宅で聴いた覚えはほとんどないでしょうか・・・
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▼出した葉書きの枚数
葉書:は、したがってほとんど書いた覚えがないです。ポエムのほうには少し。 |
▼当時のことで、印象に残っている出来事・イベント・リスナーなど、なんでもお書き下さい。
印象に残っている:人物といえば無論イシコ(石河)さん!いまどうしていらっしゃるんでしょう?京プラで偉くなってるのかなぁ・・・
イベント:デサントの公録、ありましたねぇ。でも、なにより夏冬春の休みに地方のリスナーさんがいらしてくれて、いろいろ話せたのが楽しかったなぁ。
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▼今だから聞きたい質問があれば、どうぞ。
▼今現在は、どんなお仕事をなさっていますか?
重度知的障害者援助業務ってところです。これは介護士というよりは保育士の資格でやっているので、厳密にいえばあのクイズの答えは・・・
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▼その他
HPの写真を見る限り、照子さん全然変わってないのはどうして?!びっく
りですよぉ!!
機会があったらお会いして、この眼で確かめたいですね。
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▼照子さんからひとこと
カビさん・・・これは私が付けたあだ名です。
高校生だった島田君、いつも小さな無精ひげが、あごに生えていて「わ〜、カビみたい。きたないよ〜」と、みんなで言っていましたから。
キャンディーズのミキちゃんの大ファンでしたよね。
当時、結構いい加減(ごめんね)だったあのカビ君が、今は立派な保育士さん!
すごく嬉しいです! これからも身体の不自由な方々のために頑張ってください
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更新日 2003/3/15
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▼あなたのお名前
▼「ヤロメロ」当時のペンネーム
▼ヤロメロ歴
先日、聞き始めのコーナーで、ギャングパークの途中からというふうな書き込みをしましたが、古いベリカードの日付を調べたら、76.3.31となってました。
ですから、ギャングパーク以前に何かを聞いてるみたいです。(おぼえてない)
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▼担当コーナーがありましたら
「エールコーナー」〜「いいたい方言」〜「木造コーナー」
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▼出した葉書きの枚数
100枚ちょっととテープ1本
投稿は、79〜80の1年間のみ
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▼当時のことで、印象に残っている出来事・イベント・リスナーなど、なんでもお書き下さい。
上京前は、部活のからみで、聞くだけのリスナーでしたが、3年になったら、ある程度自由に行動できるようになったので、はがきを書き始めました。
テープ1本は、「おしゃべり教室」というコーナーに方言を使った内容で送り、採用されました。
上京後は、TOYOという会の会長を西野真一君より引継ぎ、三ヶ月でこかしました。会員のみなさん、ごめんなさい。
既存の会とは一味違う活動をの気概のもとに、「大橋照子の魅力とは」などという記事も書きました。
が、如何せん、継続できなかったのが、悔やまれます。
スタジオ常連になって、しばらくしてから、写真を撮り始めました。
およそ1年間で撮影したフィルム数、150本ぐらい。
とにかくこの頃、大橋さんを追いかけ行った場所、のべ数十箇所。そのほとんどが、初めての場所でした。
なぜ撮るのを止めたかと言いますと。新たに上京したリスナーに、場所をゆずろうということと、コーナーが始まったからですかねえ。
ちなみに「仲間たち」の髪飾りをつけてる写真2点は、私の撮影したものです。
クイズの問題にもなってる「木造コーナー」ですが、始まりは、たんぱのキャンペーン連動コーナーの「エールコーナー」からです。声をかけられたのが、大橋さんからなのか高ヤンからなのか忘れましたが、当時一番目立ってた一団がいたようです。
当初は、数人が交代で出てました。
その後「言いたい方言」となり、本来ならそのまま進行していくはずだったのに、なぜ「木造コーナー」となったのか。
詳しく書くと朝までかかりかねないので、簡単に。
82年の選手権大会で青森県高校野球史上、最悪の出来事がありました。
それからです。
コーナーは2年間担当し、麻上洋子さんともごいっしょさせていただきまし
た。
内容に関しては、もう少し余裕と遊び心があれば、よかったかなあと思いま
す。
コーナー担当以降は、放送終了後の行き先が、それ以前のバンビ・白十字か
ら雀荘になりました。いろいろと理由はあるんですけど、ひとつは、「出発進行」などのからみで、スタジオの時間規制がだんだんきびしくなり、長居出来なくなったことがあります。
たんぱ界隈の雀荘は、完全制覇しました。
当時の夢が、大橋さんとの麻雀でした。
20年後にかないました。
麻雀は性格がでるとよく言いますが、大橋さんは、私の思ってたとおりの方
でした。
めでたし、めでたし。(♪チャン、チャン!)
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▼今現在は、どんなお仕事をなさっていますか?
▼照子さんからひとこと
[82年の選手権大会で青森県高校野球史上、最悪の出来事]
・・・これをバラシてしまうと・・・甲子園で青森県の木造高校が、1回戦でノーヒットノーランを浴びてしまったのです。
それ以来、青森県出身の中西君は「木造! 木造!」と喝采(?)を浴びるようになりました。
なお、葉書きは本名で出してくれていましたが、なぜか皆からは
「パーコ中西」と呼ばれていました。
ところで、大橋さんは思った通りの人って・・?
そそっかしくて、地味手より清一、安全より「エイヤ!」が好き・・?
わが道を行く? 注意力散漫?
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更新日 2003/3/21
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▼あなたのお名前
▼「ヤロメロ」当時のペンネーム
ペンネームは使っていませんでした。
照子さんからは「私書箱の住人さん」と呼ばれたこともあったような気もします。
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▼ヤロメロ歴
1977年「風力3」が出版される少し前から聞き始めました。
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▼出した葉書きの枚数
▼今現在は、どんなお仕事をなさっていますか?
耳鼻咽喉科の医者が本業です。
研究所の研究員も兼任しています。
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▼当時のことで、印象に残っている出来事・イベント・リスナーなど、なんでもお書き下さい。
初めて照子さんに会った(会えなかった)ときの話です。
公開録音の前日に空港にお出迎えに行きました。きっと大勢のリスナーに取り囲まれているからすぐに分かると思っていました。
でも見つかりませんでした。
翌日に公録会場でサインをもらったときに尋ねると、他のリスナーとは会えたそうです。
ショック〜。それ以後は空港や駅でのお出迎えに失敗したことはありませんけど。
休日放送用の特別番組「ヤロメロ商社チャレンジレポート」(題名は記憶違いかも)の学生レポーターに参加しませんか?と収録の前日にたんぱから電話がかかってきて、照子さんの番組ならと上京しました。
「瀬尾君なら来てくれると思った」この言葉で何人だましたんでしょう(^^;
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▼照子さんからひとこと
瀬尾君は、始めから「お医者様の卵」というイメージなのですが、初めて聞かれた頃は、どうだったのでしょう。
いつも沈着冷静で、思慮深い・・・そんな印象です。
関西方面に行くとお会いできたし、東京のスタジオにもよく来て下さいましたよね。
だって、東京に住まれたことはないはずなのに、すご〜くよくお顔を知っていますもの。
ダマしたなんて・・・とんでもない。心から思ったことです(笑)。
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更新日 2003/3/29
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▼あなたのお名前
▼「ヤロメロ」当時のペンネーム
いくつかありましたが、
「ヤロメロ」へは、
@さっぽろ きよし……大橋さんが名前を端折られたことがきっかけ
AALTO(後掲)会長
B好美蘭(セビラン)……キャンディーズファンでしたので
ちなみに「ポエム」へは、
@北海道特派員……長岡さんに命名していただきました
A愛しの照々坊主……現在も使用
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▼ヤロメロ歴
前身の「ギャングパーク」から聴いており、「ヤロメロ」終了直前までということは、何年になるのでしょう?
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▼担当コーナーや、作られた会がありましたら
北海道は札幌在住でしたので、担当したかったのですが、残念ながら、コーナーは受け持っていませんでした。
日本全国各地に在住するリスナーを取りまとめて、番組ならびに、大橋さんを応援・支援しながら、リスナー間の親睦をはかる目的のもと、昭和52年('76?)ALTO(All Japan The League of Teruko Ohhashi)全国大橋照子連盟、通称アルトを結成。
地方からの呼びかけのため、東京中心の活動は出来ず、会報の発行が主たるものとなってしまいましたが、(会報を発行する、さきがけとなった会です。)いずれは定期的な会費の徴収のもと、しっかりとした組織での展開を目していました。
会員はあっという間に500名を越え、嬉しいやら、お金を扱うとなると、これは大変……と、臆したこともあり、なかなか思うような方向に考えが及ばず、自然消滅………を余儀なくされてしまいました。
この場を借りて、皆々様に不甲斐なさを深くお詫び申し上げます。
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▼出した葉書きの枚数
ナンバリングしてはっきりしている枚数が、約5,000枚。
ポエム他を含めると、約10,000枚でしょうか。
採用率は……3割くらいですかね。
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▼今現在は、どんなお仕事をなさっていますか?
数年前にリストラに遭い、現在は某会社で、GPSによる車両誘導業務を行っています。
1日約800〜1,000件、マイク片手に、パソコン画面を見ながら肉声で流しています。
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▼当時のことで、印象に残っている出来事・イベント・リスナーなど、なんでもお書き下さい。
大橋さんが何冊か出された本の中で、何度か私のことを紹介していただいたことが、実に印象深く残っています。
他に日本経済新聞、女性セブン、ランラジオ……といった新聞や雑誌にも、大橋さんへのインタビューの中で、私の実名が出てきたりと、大変嬉しく、(目立ちたがり屋だった。)何冊も、何部も買った覚えがあります。
(どこかにしまってあるはずです。)
当時、大学受験生(浪人)であった私にとって、ラジオは欠かせない必需品で、
特に、心のよりどころ、実に身近な存在の大橋さんであったのですが、色々と世間の注目を浴びられるにつれて、つい、「この頃、光ってるんだよな、大橋照子っていう人。新聞、雑誌にどんどん出ちゃって、僕らの横にいた人が、すうっと上に昇っちゃったようで、いやだなぁ。遠い存在になったみたいだ。僕が浪人だから、こう思うのかなぁ。」(愛の風は風力3)と、心なくもハガキにしたためてしまいました。
可愛い?やっかみですよね。
それからでしょうか?「大橋さんは変わった……」と、色々と波紋を呼んだのは……
いつでもスタジオを訪問出来る、東京近郊のリスナーが羨ましく、ここ札幌から、どう影響力を及ぼそうかと、よく考えていました。
その実際の手法が、毎日のように投函していたハガキであり、その結果、一度は「リスナーが選んだ、リスナーベストテン」の一位になって、これはもう、大変な喜びでしたし、「シラケた時に、あ〜あ、バビル!(本来の意)」を流行らせようと、結果、コーナーになったのも、リスナー冥利に尽きることでした。
「ヤロメロ」以外の番組も含めて、番組中で大橋さんが涙されたのを、私は、3度憶えていますが、やはりその人柄、資質があってこその当時・現在であると思っていますので、今後とも、大いに活躍されることを、切に願っています。
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▼照子さんからひとこと
北海道から何通も何通も葉書きや封書を下さったので、とても特異な存在でした。
きれいな文字で、「全国大橋照子連盟」の会報を書いて印刷して下さっていました。マメ・マジメを絵に描いたような方でした。
札幌に何度か公録で行ったときも、必ず来て下さいましたね。
東京での学生時代中からでしょうか、行方不明になり、長い15年くらいのブランクを経て、中波の「ラジオはカプチーノ」へ突然葉書きが来たのが、”私の番組への里帰り”の始まりでした。
名前が書いてなかったお便りを、ぱっと見ただけで「末廣君だ」と分ったのは、どちらも流石でしょ。
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更新日 2003/4/6
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